毎日新聞が2008年11月30日から5日間、シリーズでマハムニ母子寮を掲載されました。
◆11月30日 日曜 1&30ページ
子ども救援キャンペーン:バングラデシュ再訪 ありがとう、30年前の、小さな贈り物
バングラデシュ東部の母子寮。少年は日本から贈られた鉛筆を大事そうに手に挟み、お辞儀した−−。1979年に「鉛筆の少年」で始まった毎日新聞と毎日新聞社会事業団の「世界子ども救援キャンペーン」(旧「飢餓・貧困・難民救済キャンペーン」)は、今年30年目を迎えた。取材班は11月、その第1回取材地・バングラデシュを再訪。少年は立派な成人になり、幸せな家庭を築いていた。だが母子寮自体は存続の危機にひんしていた。この国の子どもたちがどうしたら貧困を越えていけるのか、改めて問題提起したい。
◇貧困を越えて/1 自立果たした「鉛筆の少年」
約30年前、毎日新聞のキャンペーン報道で、バングラデシュの「鉛筆の少年」として紙面に登場したルーパヨン・ボルワさん(39)。日本からの大きな支援が集まるきっかけとなった。パキスタンとの独立戦争の混乱から逃れたインドで生まれたが、帰国後も貧困にあえいだ。その人生はバングラデシュの歴史と重なる。家族を救ったのは、母子寮の存在だった。「母子寮は私にとって忘れられない神聖な場所。存続のため、できることから始めたい」。自立への模索がようやく始まろうとしている。【文・福田隆、写真・森田剛史】
◆12月1日 月曜 26ページ
貧困を越えて/2 存続危機のマハムニ母子寮
◇細る日本からの寄付
「おはようございます」。バングラデシュ東部の農村にあるマハムニ母子寮では毎朝、日本語のあいさつが響く。運営資金を提供している日本人に、感謝の気持ちを忘れないためだ。時間の厳守、掃除の徹底、丁寧なお辞儀など、至るところに日本式の作法が織り込まれている。しかし、代表の日本人僧侶が昨年亡くなると寄付は激減し、今年は新入寮生を受け入れることができなかった。母子寮は存続の危機に立たされている。
◆12月2日 火曜 26ページ
貧困を越えて/3 母子寮、支え合う孤児たち
◇気丈な姉妹、涙ひと粒
バングラデシュのマハムニ母子寮には、貧困家庭の子どもたちが身を寄せる。寮生99人のうち、両親を亡くした4人のほか、父親を亡くした31人、母親を亡くした4人で、全体の約4割。残りの多くも親が行方不明など養育できる状態ではない。母子寮は、こうした子どもたちに衣食住と教育の機会を与え続けてきた。その数は開設から33年間で約2000人に上る。
◆12月3日 水曜 26ページ
貧困を越えて/4 「寄付しなくちゃ」心の負担に
◇寄りつけない卒寮生
日本人僧侶の福井宗芳氏が亡くなり、存続の危機に立たされたバングラデシュのマハムニ母子寮。33年間にわたり貧困家庭の子どもたち2000人以上を救ってきた。専門学校などに進学し立派な社会人となった卒寮生も多い。だが、寮の運営を支援する卒寮生がほとんどいないのも実情だ。
◆12月4日 木曜 26ページ
貧困を越えて/5止 卒寮、迫る進路選択
◇医師の夢、描けぬ少女
◇貧困を越えて/1 自立果たした「鉛筆の少年」
約30年前、毎日新聞のキャンペーン報道で、バングラデシュの「鉛筆の少年」として紙面に登場したルーパヨン・ボルワさん(39)。日本からの大きな支援が集まるきっかけとなった。パキスタンとの独立戦争の混乱から逃れたインドで生まれたが、帰国後も貧困にあえいだ。その人生はバングラデシュの歴史と重なる。家族を救ったのは、母子寮の存在だった。「母子寮は私にとって忘れられない神聖な場所。存続のため、できることから始めたい」。自立への模索がようやく始まろうとしている。【文・福田隆、写真・森田剛史】
◆12月1日 月曜 26ページ
貧困を越えて/2 存続危機のマハムニ母子寮
◇細る日本からの寄付
「おはようございます」。バングラデシュ東部の農村にあるマハムニ母子寮では毎朝、日本語のあいさつが響く。運営資金を提供している日本人に、感謝の気持ちを忘れないためだ。時間の厳守、掃除の徹底、丁寧なお辞儀など、至るところに日本式の作法が織り込まれている。しかし、代表の日本人僧侶が昨年亡くなると寄付は激減し、今年は新入寮生を受け入れることができなかった。母子寮は存続の危機に立たされている。
◆12月2日 火曜 26ページ
貧困を越えて/3 母子寮、支え合う孤児たち
◇気丈な姉妹、涙ひと粒
バングラデシュのマハムニ母子寮には、貧困家庭の子どもたちが身を寄せる。寮生99人のうち、両親を亡くした4人のほか、父親を亡くした31人、母親を亡くした4人で、全体の約4割。残りの多くも親が行方不明など養育できる状態ではない。母子寮は、こうした子どもたちに衣食住と教育の機会を与え続けてきた。その数は開設から33年間で約2000人に上る。
◆12月3日 水曜 26ページ
貧困を越えて/4 「寄付しなくちゃ」心の負担に
◇寄りつけない卒寮生
日本人僧侶の福井宗芳氏が亡くなり、存続の危機に立たされたバングラデシュのマハムニ母子寮。33年間にわたり貧困家庭の子どもたち2000人以上を救ってきた。専門学校などに進学し立派な社会人となった卒寮生も多い。だが、寮の運営を支援する卒寮生がほとんどいないのも実情だ。
卒寮生の中でも成功者として知られるスーパス・ボルワさん(37)の建築事務所は、チッタゴン市中心部のオフィスビルにある。成績優秀だったスーパスさんは、卒寮後、専門学校で土木を学び、22歳で開業。今では4人の社員を雇い、市内のアパートや商業ビルの設計を手がける。だが、寮の運営支援に関しては「新聞で現状を伝えて、日本で寄付金を呼びかけてほしい」と話すにとどまった。今回、約10人の卒寮生たちに話を聞いたが、みな深い感謝を示しながらも「自分1人では背負えない」という複雑な心境がくみ取れた。
◆12月4日 木曜 26ページ
貧困を越えて/5止 卒寮、迫る進路選択
◇医師の夢、描けぬ少女
「お兄さん、こんにちは!」。貧しい家庭の子どもたちに、衣食住と教育の機会を与えているバングラデシュのマハムニ母子寮で、ひときわ元気な少女がいた。ビジョイヤ・ドットさん(16)。成績優秀で面倒見がよく、寮の「お姉さん」的存在だ。父親をがんで亡くしたため、将来は医師を目指しているが、今月の卒寮と同時に、その道が閉ざされる可能性は高い。
3人姉妹の末っ子として生まれた。8年前、父親が突然末期がんと診断を受け、3姉妹とも母子寮に入った。そのわずか15日後、父親は死去。現在、長姉は工場勤め、次姉は働きながら看護学校に通っている。母親のアンジョリ・ドットさん(51)は、寮から約10キロ東にある実家で親せきとともに農業を営む。約700平方メートルの借地で、食後にかんで口をさっぱりさせる香草を栽培。毎日朝7時から夕方5時まで働きづめだ。しかし香草は1束(50枚)20タカ(約30円)にしかならず、「食べるのが精いっぱい」という。
【一本の鉛筆】毎日新聞連載中-貧困を超えて-
今から29年前、日本から贈られた一本の鉛筆を大切に受け取りながら、丁寧に手を合わせて仏教徒のおじぎをする少年の写真(中尾豊撮影)は撮られた。
少年は鉛筆を届けにきた大きな日本人を上目づかいに見つめている。その大きな瞳からは、71年の独立以降まだ社会的・政治的混乱の最中にあったバングラデシュで起こっていた事と彼が経験していた事に対して、ただ眼をつぶってやり過ごして来たのではなく、それらの光景をひたすら脳裏に焼き付けてきたことが窺える。
それは少年にとっての唯一の手段であったはずで、意思を持ち、かつ恣意的に拒絶・選択を繰りかえす大人とは対照的に、澱みのない無垢な瞳は分け隔てのない純真さゆえに、吸い込まれるような力と、強く放出する言葉以外のメッセージを同時に発揮している。
イスラム国として建国間もないバングラデシュで、民族主義的傾向が旺盛だったこの時期、極少数派の仏教徒として生まれ育ってきたこの少年は、現在どうしているのだろうか。
マハムニ母子寮
バングラデシュ第二の都市チッタゴンから東へ、インド・ミゾーラム州との国境へ続く丘陵地帯の方に車で1時間ほど向かった場所に、当時少年が寄宿生活を送っていたマハムニ母子寮はあった。
マハムニとは マハ・ムニ(大きい・仏)「大仏」の意味で、母子寮の裏手にこの地域最大の大仏を祀るマハムニ・モンディール寺があり、その名を採ってこの村はマハムニ村と呼ばれている。雨季を向かえていたマハムニ村は、雨間の陽射しに勢いのある木々の緑が心地よく目に沁み、レンガ敷きされた古い村道の所々で小川が横切る美しい村だった。
マハムニ母子寮は、1973年に静岡県出身の僧侶 故・渡辺天城(わたなべ てんじょう)師ほか数名の僧侶により、独立間もないバングラデシュで生活に苦しむ人々を救済するための福祉センターとして発足した。
76年に常設の寄宿舎として、未亡人と子供達の生活支援・就学支援を行う母子寮が創立され、初代代表として天城師が運営していた。
天城師は、2002年の4月に多くの生徒たちに看取られながら母子寮で静かに息を引き取るまでの26年間、この国では少数派となる仏教徒とヒンズー教徒の貧しい人々へ日本からの寄付金を募りながら、救済と未来へむけてのより良い展望を祈りながら活動を続けてきた。
一本の鉛筆の少年は、マハムニ母子寮が創立から間もない、まだ日本からの寄付金もままならない時代の少年だった。
一本の鉛筆の少年
一本の鉛筆の少年は、マハムニ母子寮の創立当時から現在に至るまで記録され続けている在寮生名簿と、79年当時の寮生たちの記憶から、素早く見つけ出すことができた。
少年の名は、ルーパヨン・ブルワ。 79年に毎日新聞取材班がマハムニ母子寮を訪れた時、ルーパヨン君は母子寮から近くのプライマリースクール(初級学校)へ通う、2年生の6歳の少年として紹介されたはずだった。
しかし家庭が貧しかった為に、学校への就学年齢の5歳になった時も彼は学校へは行けず、3年遅れてようやくマハムニ母子寮に入寮して学校に通うことができる様になったのだった。
彼が母子寮に入寮して学校に通うにあたり、政府に申請するための書類に記載された就学開始年齢は5歳であったが、写真の当時、実は6歳ではなく9歳になっていた。それは、就学年齢を過ぎてマハムニ母子寮に入寮して来る子供たちが、将来さらに進学・就職する時に何らかのマイナス要因にならないようにと考えられた配慮だった。

成長したルーパヨン・ブルワさんは、印象のある大きい無骨な手と強い瞳に、大人の落ち着きを兼ね備える、働き盛りの39歳の逞しい男性になっていた。
「いつもお腹を空かせていた事ばかり思いだします、でも天城さんが居なければ勉強することは本当に出来なかったかもしれません、ここでは貧しかったけれど、感謝しています」
久しぶりに幼い頃の自分の、ひ弱で危うく、そして鋭い姿を見つめながら話す、目鼻立ちのはっきりとした大作りの顔をほころばせる笑顔がとてもよい、新鮮な印象だ。
ときおり宙を見て目を細めながら、ルーパヨンさんは当時を話し始めた。
「土地を持たない農夫として、父だけが働いていた生活は、本当に貧しいものでした」
ルーパヨンさんの生まれる以前、ご両親はマハムニ村から東に12キロほど離れたコドルプルという村で暮らしていた。
当時東パキスタンと呼ばれていたバングラデシュは、西パキスタン(現パキスタン)との連立解消が叫ばれ、軍による一般市民への激しい弾圧が続き、惨禍を逃れる大量の一般市民が隣国のインドへ難民として流入していた。
ルーパヨンさんのご両親も、そしてルーパヨンさん自身も、バングラデシュ独立前の大混乱した時代に翻弄された人々であった。ルーパヨンさんのご両親は命の危険から逃れるためインドへ脱出し、難民としてコルカタ(カルカッタ)での避難生活を送っていた。
ルーパヨンさんはその時、1969年に生まれた。独立後、故郷へ戻ってきたルーパヨンさん達の生活は、小作農として働く以外に他の仕事の当てもない、厳しい生活が待っていた。
「母はそんな生活の中にいる幼い私に、なんとか教育を受けさせたいと、マハムニ母子寮にお願いしてくれました」ルーパヨンさんは、78年に漸く入寮許可をもらう事ができた。
「マハムニ母子寮の入寮許可が出た時はうれしかったと母はよく言っています、許可が出るまで4回も申請し続けてくれていた事に、本当に感謝しています」当時の母子寮は現在の状態と較べると、格段に規模の小さい質素な建物だった。
78年に電気はマハムニ村に通されたというが、周囲はサルがよく出没したというジャングルに囲まれ、泥の土壁にヤシの葉を葺いただけの扇風機も無い小屋の中で、70人ほどの寮生たちが身を寄せあって暮らしていたという。
寮生たちは日々、汚れた水による細菌性の下痢と皮膚病に悩まされていた。幼いルーパヨン君が坊主頭にしていたのは、皮膚病とシラミを予防してのことだった。
ルーパヨンさんはマハムニ母子寮で11年間暮らし、最終的にカレッジ(専門学校)で2年間商学の勉強をした。チッタゴンにある輸入ベアリングを主に扱う商社へ就職をした彼は、就職後、より良い収入を求めて一度だけUAE(アラブ首長国連邦)へ出稼ぎに向かった。
2年間アブダビで農夫として働き、帰国後に彼は再び商社へ戻ることができた。2001年に結婚をして、現在も母の住むコドルプル村から、毎日2時間かけてチッタゴンの仕事場へ通う生活をしている。
マハムニ母子寮の現在
写真の時から29年を経たマハムニ母子寮は、モルタル2階建ての男子寮・女子寮と寮生たちが補修を行う学習棟が、日本とバングラデシュの国旗が掲げられた小さな校庭を囲むように建てられている。
寮生たちの1日は毎朝5時30分からの朝礼に始まり、近くにある公立の初級・中級学校で勉強する生活を中心に、掃除・料理補助・農作業と、役割分担された規則正しい生活を送ることができている。
現在の寮生の人数は105人。その全ては子供たちで、設立当初もう一つの大きな目標として掲げられていた未亡人の生活支援は、現在ではバングラデシュ政府から補助金が、未亡人一人当たりに1ヶ月300タカ(約480円)支給されるようになり、また製縫工場での女性労働者の需要が急増した事などで、1987年以降急激に減少し、母子寮スタッフとして働く4人を残すのみとなった。
マハムニ母子寮は渡辺天城師が亡くなられた後、長く天城師を補佐してきた日本人僧侶・福井宗芳(ふくい むねよし)師がそのあとを引き継いだ。しかし、その福井師も2007年に62歳で急逝してしまった。
寮生や母子寮を巣立っていった卒寮生たちから、マハムニ母子寮のはなしを伺うとき、いつも彼らの言葉は「母子寮では」から始まらず、「天城さん」「福井さん」という言葉から始まった。だれもが自分を援助し続けてくれた日本人僧侶の名前を呼びながら話をしたのだった。子供たちのために働いてきた天城師と福井師の気持ちは、皆に伝わっているのだ。
今から29年前、日本から贈られた一本の鉛筆を大切に受け取りながら、丁寧に手を合わせて仏教徒のおじぎをする少年の写真(中尾豊撮影)は撮られた。
それは少年にとっての唯一の手段であったはずで、意思を持ち、かつ恣意的に拒絶・選択を繰りかえす大人とは対照的に、澱みのない無垢な瞳は分け隔てのない純真さゆえに、吸い込まれるような力と、強く放出する言葉以外のメッセージを同時に発揮している。
イスラム国として建国間もないバングラデシュで、民族主義的傾向が旺盛だったこの時期、極少数派の仏教徒として生まれ育ってきたこの少年は、現在どうしているのだろうか。
マハムニ母子寮
バングラデシュ第二の都市チッタゴンから東へ、インド・ミゾーラム州との国境へ続く丘陵地帯の方に車で1時間ほど向かった場所に、当時少年が寄宿生活を送っていたマハムニ母子寮はあった。
マハムニとは マハ・ムニ(大きい・仏)「大仏」の意味で、母子寮の裏手にこの地域最大の大仏を祀るマハムニ・モンディール寺があり、その名を採ってこの村はマハムニ村と呼ばれている。雨季を向かえていたマハムニ村は、雨間の陽射しに勢いのある木々の緑が心地よく目に沁み、レンガ敷きされた古い村道の所々で小川が横切る美しい村だった。
マハムニ母子寮は、1973年に静岡県出身の僧侶 故・渡辺天城(わたなべ てんじょう)師ほか数名の僧侶により、独立間もないバングラデシュで生活に苦しむ人々を救済するための福祉センターとして発足した。
76年に常設の寄宿舎として、未亡人と子供達の生活支援・就学支援を行う母子寮が創立され、初代代表として天城師が運営していた。
天城師は、2002年の4月に多くの生徒たちに看取られながら母子寮で静かに息を引き取るまでの26年間、この国では少数派となる仏教徒とヒンズー教徒の貧しい人々へ日本からの寄付金を募りながら、救済と未来へむけてのより良い展望を祈りながら活動を続けてきた。
一本の鉛筆の少年は、マハムニ母子寮が創立から間もない、まだ日本からの寄付金もままならない時代の少年だった。
一本の鉛筆の少年
一本の鉛筆の少年は、マハムニ母子寮の創立当時から現在に至るまで記録され続けている在寮生名簿と、79年当時の寮生たちの記憶から、素早く見つけ出すことができた。
少年の名は、ルーパヨン・ブルワ。 79年に毎日新聞取材班がマハムニ母子寮を訪れた時、ルーパヨン君は母子寮から近くのプライマリースクール(初級学校)へ通う、2年生の6歳の少年として紹介されたはずだった。
しかし家庭が貧しかった為に、学校への就学年齢の5歳になった時も彼は学校へは行けず、3年遅れてようやくマハムニ母子寮に入寮して学校に通うことができる様になったのだった。
彼が母子寮に入寮して学校に通うにあたり、政府に申請するための書類に記載された就学開始年齢は5歳であったが、写真の当時、実は6歳ではなく9歳になっていた。それは、就学年齢を過ぎてマハムニ母子寮に入寮して来る子供たちが、将来さらに進学・就職する時に何らかのマイナス要因にならないようにと考えられた配慮だった。
成長したルーパヨン・ブルワさんは、印象のある大きい無骨な手と強い瞳に、大人の落ち着きを兼ね備える、働き盛りの39歳の逞しい男性になっていた。
「いつもお腹を空かせていた事ばかり思いだします、でも天城さんが居なければ勉強することは本当に出来なかったかもしれません、ここでは貧しかったけれど、感謝しています」
久しぶりに幼い頃の自分の、ひ弱で危うく、そして鋭い姿を見つめながら話す、目鼻立ちのはっきりとした大作りの顔をほころばせる笑顔がとてもよい、新鮮な印象だ。
ときおり宙を見て目を細めながら、ルーパヨンさんは当時を話し始めた。
「土地を持たない農夫として、父だけが働いていた生活は、本当に貧しいものでした」
ルーパヨンさんの生まれる以前、ご両親はマハムニ村から東に12キロほど離れたコドルプルという村で暮らしていた。
当時東パキスタンと呼ばれていたバングラデシュは、西パキスタン(現パキスタン)との連立解消が叫ばれ、軍による一般市民への激しい弾圧が続き、惨禍を逃れる大量の一般市民が隣国のインドへ難民として流入していた。
ルーパヨンさんのご両親も、そしてルーパヨンさん自身も、バングラデシュ独立前の大混乱した時代に翻弄された人々であった。ルーパヨンさんのご両親は命の危険から逃れるためインドへ脱出し、難民としてコルカタ(カルカッタ)での避難生活を送っていた。
ルーパヨンさんはその時、1969年に生まれた。独立後、故郷へ戻ってきたルーパヨンさん達の生活は、小作農として働く以外に他の仕事の当てもない、厳しい生活が待っていた。
「母はそんな生活の中にいる幼い私に、なんとか教育を受けさせたいと、マハムニ母子寮にお願いしてくれました」ルーパヨンさんは、78年に漸く入寮許可をもらう事ができた。
「マハムニ母子寮の入寮許可が出た時はうれしかったと母はよく言っています、許可が出るまで4回も申請し続けてくれていた事に、本当に感謝しています」当時の母子寮は現在の状態と較べると、格段に規模の小さい質素な建物だった。
78年に電気はマハムニ村に通されたというが、周囲はサルがよく出没したというジャングルに囲まれ、泥の土壁にヤシの葉を葺いただけの扇風機も無い小屋の中で、70人ほどの寮生たちが身を寄せあって暮らしていたという。
寮生たちは日々、汚れた水による細菌性の下痢と皮膚病に悩まされていた。幼いルーパヨン君が坊主頭にしていたのは、皮膚病とシラミを予防してのことだった。
ルーパヨンさんはマハムニ母子寮で11年間暮らし、最終的にカレッジ(専門学校)で2年間商学の勉強をした。チッタゴンにある輸入ベアリングを主に扱う商社へ就職をした彼は、就職後、より良い収入を求めて一度だけUAE(アラブ首長国連邦)へ出稼ぎに向かった。
2年間アブダビで農夫として働き、帰国後に彼は再び商社へ戻ることができた。2001年に結婚をして、現在も母の住むコドルプル村から、毎日2時間かけてチッタゴンの仕事場へ通う生活をしている。
マハムニ母子寮の現在
写真の時から29年を経たマハムニ母子寮は、モルタル2階建ての男子寮・女子寮と寮生たちが補修を行う学習棟が、日本とバングラデシュの国旗が掲げられた小さな校庭を囲むように建てられている。
現在の寮生の人数は105人。その全ては子供たちで、設立当初もう一つの大きな目標として掲げられていた未亡人の生活支援は、現在ではバングラデシュ政府から補助金が、未亡人一人当たりに1ヶ月300タカ(約480円)支給されるようになり、また製縫工場での女性労働者の需要が急増した事などで、1987年以降急激に減少し、母子寮スタッフとして働く4人を残すのみとなった。
マハムニ母子寮は渡辺天城師が亡くなられた後、長く天城師を補佐してきた日本人僧侶・福井宗芳(ふくい むねよし)師がそのあとを引き継いだ。しかし、その福井師も2007年に62歳で急逝してしまった。
【動画】毎日の座禅
現在、母子寮は創設以来はじめて、運営する日本人僧侶と常駐日本人が不在の状態が続いている。日本からの寄付金が減少し、母子寮の運営に大きく影を落とし、現地人スタッフ、そして寮の子供たちも不安を覚えている。
マハムニ母子寮は長きに渡り、要となってきた天城師と福井師の活動に、大きく依存してきた。両師の卓抜した活動により救済され、安定した生活を送れる様になった人々は、この国に多く存在する。
しかしそれは現地人が自ら、母子寮の運営の為に工夫し、考えを実行する能力を備えるチャンスを摘むことに繋がっていたのではなかろうか。後継する日本人僧侶の不在、それに追い討ちを掛ける食品の倍以上になる価格上昇の中で、マハムニ母子寮は新たな巣立ちを求められているのかもしれない。
これまでは寮生と母子寮ともども、巣の中の雛としてエサをもらってきた。これからは日本人と母子寮が親鳥の両翼となり、貧しい子供たちを救済してゆくために。
山田 真
<作者のプロフィール>
1969年 東京生まれ
1995年 個展「Node・旅」 新宿コニカプラザ
1999年 個展「Node−旅の光景」 新宿コニカプラザ
2000年 ペーパーギャラリー「TIDE」vol.3に「巨船終焉の地」を掲載
2002年 アサヒカメラ3月号に「シップブレーカーズ チッタゴン」を掲載
イラク、サダムフセイン生誕記念写真展参加。戦前のイラクを撮影後、イスラエルを取材。
2003年 戦後のイラク撮影
2004年 国際協力5月号特集に高度成長期の遺物、チッタゴン シップブレーキングヤードの写真・文掲載
マハムニ母子寮は長きに渡り、要となってきた天城師と福井師の活動に、大きく依存してきた。両師の卓抜した活動により救済され、安定した生活を送れる様になった人々は、この国に多く存在する。
これまでは寮生と母子寮ともども、巣の中の雛としてエサをもらってきた。これからは日本人と母子寮が親鳥の両翼となり、貧しい子供たちを救済してゆくために。
山田 真
<作者のプロフィール>
1969年 東京生まれ
1995年 個展「Node・旅」 新宿コニカプラザ
1999年 個展「Node−旅の光景」 新宿コニカプラザ
2000年 ペーパーギャラリー「TIDE」vol.3に「巨船終焉の地」を掲載
2002年 アサヒカメラ3月号に「シップブレーカーズ チッタゴン」を掲載
イラク、サダムフセイン生誕記念写真展参加。戦前のイラクを撮影後、イスラエルを取材。
2003年 戦後のイラク撮影
2004年 国際協力5月号特集に高度成長期の遺物、チッタゴン シップブレーキングヤードの写真・文掲載
マハムニ母子寮は、北海道と九州を合わせたほどの小さな国、バングラデッシュの南東部にある「マハムニ」にあります。独立30年以上の現在に至っても、いまだに貧困にあえぐバングラデシュ。人口爆発によるムスリム(回教徒)の大海に浮かぶ小船のごとき仏教徒やヒンドゥー教徒の人々。マハムニ村はチタゴン地方の田園地帯にある仏教徒の村です。
※マハムニとは「大きな仏」という意味です。
独立戦争後の極端に疲弊した国情の中で、創立当初は、仏教徒、ヒンドゥー教徒の子供、未亡人の避難所的な施設としてありました。
開設1974年、現在もその圧倒的な貧困は余り改善されてはいないとはいえ、当初のたんなるシェルター的な目的から無教育のため社会に出ることのできなかったマイノリティの親たちの夢をかなえるべく、子供らにその「教育」を与えることを第一目標とする施設へと変貌してきております。大部分の子供たちは母子家庭の出身で、父親は病死したり、病床にあったり、蒸発してしまったりと、孤児同然の不運な子供たちです。10年生を卒業した時点で全国一斉のSSC国家資格試験があり、これにパスすることを母子寮の筆頭目標としております。SSC(11歳〜15歳の柱等教育で、試験に合格すると中等教育修了証 S.S.C : Secondary School Certificateを取得できる)をパスしないことには上級学校はもちろん、町でのちょっとした就職口も得られません。
「マハムニ母子寮」は、恵まれない子供たちへの支援だけでなく、日本の豊かさの還元、そして交流の場として、また日本人の真心の証として、その灯をともし続けていかなければならないと思っております。
将来の希望としては優秀な生徒の日本への派遣、母子寮卒業生の自立への支援、母子寮自立への方策、村の社会環境への貢献などです。
※画像出処:(株)カメックス
マハムニ母子寮の歴史は設立者で、「マハトマ・ガンジー非暴力平和賞」受賞者であり故・渡辺天城上人と二代目代表者、故・福井宗芳師なしでは語れません。
当母子寮は、1974年−76に日本・バングラデシュ文化交流センターの協力のもと、両国間の親交を深める目的で、日本人僧侶、渡辺天城上人によって設立されました。
1971年、バングラデシュ独立戦争直後、天城上人は数名の僧侶と共に苦しんでいる人たちに救援物資を配布するため、この国を初めて訪れました。そこで足を運んだのがマハムニの村でした。もとよりたくさんの寺や仏像があったこの地を彼は大変気に入り、そこで生活に苦しむ未亡人や子供たちのために常設の福祉センターを作ろうと決心しました。こうして、彼が、この福祉センターの創立者兼初代代表となりました。
当初できた建物は、泥造りトタンぶきの粗末な小屋でした。天城上人は年に一度、日本に帰国してマハムニの子供たちのために寄付を募りました。そのかいがあり、数年後には、調理場、トイレ、風呂場を含む二階建ての建物へと改築され、施設に通じる道も整備されてきました。また、彼の働きかけで、村にも電気も来るようになり、村人からも大変感謝されました。
その後、1986年に福井宗芳師が初めてこの地を訪れ、天城上人のもと、6年間、ボランティアとして母子寮で働きました。宗芳師は、3-4か月の短期間でベンガル語を取得し、マイクロバスを運転するかたわら、ベンガル語の歌のカセットを聴いて、多くの歌を覚え、周囲の人たちと親交を深めていきました。
宗芳師は、いずれは天城上人の後継者としてマハムニを支えていきたいと考え、一度日本に戻り、京都の寺で臨済宗僧侶となりました。3年間の禅の修行の後、今度はタイに渡り、ヒノヤナ仏教(南方仏教)の僧侶の資格をも取得しました。しかし、彼が修行を終え、この地に帰国した時には、すでに天城上人は、病の床に伏し、三週間後(2002年4月5日)に亡くなられたのでした。その後、同年7月29日、宗芳師が当国のNGOに登録し、マハムニ母子寮代表を受け継ぎました。
着任後、宗芳師は特に母子寮の子供たちの教育水準をあげることに力を入れ、新しい規則やプログラムを作りました。例えば、毎日15分ほどの瞑想により、子供たちの集中力が高まると考え、これを実行しました。また、何度も規則を破る子供に対しては、母子寮から退寮させるという厳しい処分もおこないました。そのような彼の教育と努力のおかげで、子供たちの成績は上がり、学校でもよい評価を受けるようになりました。
しかし、残念ながら宗芳師の、このような代表者としての働きは長く続きませんでした。就任後、わずか5年で癌に侵されることになりました。しかし、宗芳師は、その事実を知りながらも、それが悪化し、治療のため帰国せざるえなくなるまで、マハムニで子供たちのために働き続けました。ついに宗芳師は2007年10月26日夜、日本の病院で亡くなったのです。
当母子寮は、1974年−76に日本・バングラデシュ文化交流センターの協力のもと、両国間の親交を深める目的で、日本人僧侶、渡辺天城上人によって設立されました。
1971年、バングラデシュ独立戦争直後、天城上人は数名の僧侶と共に苦しんでいる人たちに救援物資を配布するため、この国を初めて訪れました。そこで足を運んだのがマハムニの村でした。もとよりたくさんの寺や仏像があったこの地を彼は大変気に入り、そこで生活に苦しむ未亡人や子供たちのために常設の福祉センターを作ろうと決心しました。こうして、彼が、この福祉センターの創立者兼初代代表となりました。
当初できた建物は、泥造りトタンぶきの粗末な小屋でした。天城上人は年に一度、日本に帰国してマハムニの子供たちのために寄付を募りました。そのかいがあり、数年後には、調理場、トイレ、風呂場を含む二階建ての建物へと改築され、施設に通じる道も整備されてきました。また、彼の働きかけで、村にも電気も来るようになり、村人からも大変感謝されました。その後、1986年に福井宗芳師が初めてこの地を訪れ、天城上人のもと、6年間、ボランティアとして母子寮で働きました。宗芳師は、3-4か月の短期間でベンガル語を取得し、マイクロバスを運転するかたわら、ベンガル語の歌のカセットを聴いて、多くの歌を覚え、周囲の人たちと親交を深めていきました。
宗芳師は、いずれは天城上人の後継者としてマハムニを支えていきたいと考え、一度日本に戻り、京都の寺で臨済宗僧侶となりました。3年間の禅の修行の後、今度はタイに渡り、ヒノヤナ仏教(南方仏教)の僧侶の資格をも取得しました。しかし、彼が修行を終え、この地に帰国した時には、すでに天城上人は、病の床に伏し、三週間後(2002年4月5日)に亡くなられたのでした。その後、同年7月29日、宗芳師が当国のNGOに登録し、マハムニ母子寮代表を受け継ぎました。
しかし、残念ながら宗芳師の、このような代表者としての働きは長く続きませんでした。就任後、わずか5年で癌に侵されることになりました。しかし、宗芳師は、その事実を知りながらも、それが悪化し、治療のため帰国せざるえなくなるまで、マハムニで子供たちのために働き続けました。ついに宗芳師は2007年10月26日夜、日本の病院で亡くなったのです。
【ご唱和】
2008年4月現在、マハムニ母子寮を引き継ぐ日本人スタッフはいません。
母子寮の運営に関しては、元来52名の会員と21名からなる委員会が存在していました。しかし、宗芳師亡き後、代表不在のため、委員会は常勤管理者ナトゥー・ムッシュディー氏を含む三人の役員を責任者として選出しました。ナトゥー氏は、母子寮の出身者で、母子寮にいる間にカレッジ(日本の高校レベル)を卒業しました。その後、天城上人と宗芳師のもとでマハムニの運営を手伝いをしながら学び、現在は、すべての業務をひとりで担当しています。
創設以来32年間、マハムニ母子寮は、日本人僧侶の監修のもと、維持されてきました。マハムニ委員会は、再び日本からの僧侶が、この地に来てくれることを切に願っています。
児童・生徒:6歳から16歳頃までの男子43名、女子62名、合計105名
スタッフ:14名(教師を含む)
通学:小学生(1-5年)はウッタラ・ノボタラ小学校に通学。午前、午後の二部制。中学生(6-10年)はマハムニハイスクールに通学、制服あり。
勤行:祈り(→動画4分) 座禅(→動画3分) お経唱和(→動画5分) お説教(→動画3分) 清掃、まき割り
住い:女子棟はレンガ造り二階建て。各室は8名ずつのごろ寝、6部屋あり。
男子棟も二階建て大部屋は下級生がごろ寝。各室ベット2、机2あり、5部屋。
食事:朝は粥のみ。昼、夜は米飯に野菜カレー、但し、月、金曜の夜は魚、スープが付き、火、土曜の夜はチャパティ3枚と小菜。
スタッフ:住込みが4名(教師、機織、門番、監督官の各1名)。通いが10名(教師4名、機織2名、賄い婦3名、小作1名)
経費:1ヶ月当たりの送金額が2000ドル(約22万円)、年間予算は24000ドル(288万円)、一日に当たり経費は約8000円、一日一人当たりの費用は約80円。
以上が母子寮の概略ですが、運営費はほぼ全額、日本での募金で賄われております。
マハムニ母子寮への寄付金は、日本の支援者代表、大塚ご夫妻のご協力のもと月々届けられています。
しかしながら、年々寄付額は減少し、現在、支援者を見つけるのは非常に難しいと報告を受けております。CPEZ(チッタゴン工業加工区)の日本企業やバングラデシュ在住の日本人の方など、近隣の方々にご協力を頂いています。
母子寮は、天城上人と宗芳師の多大なる努力のおかげで、今日にいたってます。
また、東京在住の大塚夫妻をはじめ、関西連絡代表の後藤住職、日本の多くの方々の援助により存続してきたことに対し、この場を借りて厚くお礼申しあげます。
今後も、今までご支援いただいた皆様の意思を引き継ぎ、この母子寮を存続させていきたいと思っております。
しかし、この母子寮を維持するには、今も定期的な運営費を必要としています。
皆様のほんの少しの気持ちや協力で、この子供たちの未来を変えることができるのです。
みなさまの関心と支援をよろしくお願いいたします。
マハムニ母子寮委員会代表 ナトゥー・ムッシュディー
平成20年4月1日
母子寮の運営に関しては、元来52名の会員と21名からなる委員会が存在していました。しかし、宗芳師亡き後、代表不在のため、委員会は常勤管理者ナトゥー・ムッシュディー氏を含む三人の役員を責任者として選出しました。ナトゥー氏は、母子寮の出身者で、母子寮にいる間にカレッジ(日本の高校レベル)を卒業しました。その後、天城上人と宗芳師のもとでマハムニの運営を手伝いをしながら学び、現在は、すべての業務をひとりで担当しています。
創設以来32年間、マハムニ母子寮は、日本人僧侶の監修のもと、維持されてきました。マハムニ委員会は、再び日本からの僧侶が、この地に来てくれることを切に願っています。
スタッフ:14名(教師を含む)
通学:小学生(1-5年)はウッタラ・ノボタラ小学校に通学。午前、午後の二部制。中学生(6-10年)はマハムニハイスクールに通学、制服あり。
勤行:祈り(→動画4分) 座禅(→動画3分) お経唱和(→動画5分) お説教(→動画3分) 清掃、まき割り
男子棟も二階建て大部屋は下級生がごろ寝。各室ベット2、机2あり、5部屋。
経費:1ヶ月当たりの送金額が2000ドル(約22万円)、年間予算は24000ドル(288万円)、一日に当たり経費は約8000円、一日一人当たりの費用は約80円。
以上が母子寮の概略ですが、運営費はほぼ全額、日本での募金で賄われております。
マハムニ母子寮への寄付金は、日本の支援者代表、大塚ご夫妻のご協力のもと月々届けられています。
しかしながら、年々寄付額は減少し、現在、支援者を見つけるのは非常に難しいと報告を受けております。CPEZ(チッタゴン工業加工区)の日本企業やバングラデシュ在住の日本人の方など、近隣の方々にご協力を頂いています。
【お祈り】
確かにバングラデシュもマハムニ母子寮設立時に比べ、ある程度経済発展を遂げてきています。しかし、昨今、貧富の差は拡大、物価も上昇し、経済は安定しているとは言えません。農村部ではいまだ、現金収入がなく、子供の長期にわたる就学資金の確保が難しい世帯がほとんどです。私たちは、このような厳しい状況の中、恵まれない境遇の子供たちが、教育を受けるチャンスを逃がすことなく、自ら道を自分の足で歩いていけるように、これからも援助し続けたいと考えます。母子寮は、天城上人と宗芳師の多大なる努力のおかげで、今日にいたってます。
また、東京在住の大塚夫妻をはじめ、関西連絡代表の後藤住職、日本の多くの方々の援助により存続してきたことに対し、この場を借りて厚くお礼申しあげます。
今後も、今までご支援いただいた皆様の意思を引き継ぎ、この母子寮を存続させていきたいと思っております。
しかし、この母子寮を維持するには、今も定期的な運営費を必要としています。
皆様のほんの少しの気持ちや協力で、この子供たちの未来を変えることができるのです。
マハムニ母子寮委員会代表 ナトゥー・ムッシュディー
平成20年4月1日
ポンポロカベツ第7話「マハムニ母子寮」 - 孝勝寺 -
マハムニ母子寮に着いた時は、既に辺りは漆黒の闇と化していた。
海岸の砂浜を思わせるような砂地に足を取られつつ
迎えに出てきた方に促がされて歩いていくと、
暗闇の中に学校の校舎のような建物がぼんやりと浮かび上がり、
そこから何か本でも朗読でもしているような子供達の声が聞こえてきた。
続きを読む....
マハムニ母子寮に着いた時は、既に辺りは漆黒の闇と化していた。
海岸の砂浜を思わせるような砂地に足を取られつつ
迎えに出てきた方に促がされて歩いていくと、
暗闇の中に学校の校舎のような建物がぼんやりと浮かび上がり、
そこから何か本でも朗読でもしているような子供達の声が聞こえてきた。
続きを読む....
2008年02月19日
ポンポロカベツ第7話「マハムニ母子寮」 - 孝勝寺 -
マハムニ母子寮に着いた時は、既に辺りは漆黒の闇と化していた。
海岸の砂浜を思わせるような砂地に足を取られつつ
迎えに出てきた方に促がされて歩いていくと、
暗闇の中に学校の校舎のような建物がぼんやりと浮かび上がり、
そこから何か本でも朗読でもしているような子供達の声が聞こえてきた。
続きを読む....
45件中(1件〜10件を表示しています)
前
| 次


